最近ゴードンを庭で放し飼いにしています。
ペットとの付き合いの長い西洋では、綱につないで飼う事が、
虐待になると聞いたことがあります。
このごろ笑うことが増えたゴードン、
綱なしでもおりこうです。
Except…
人間のご飯時はスイッチが入って制御不能。
吾をなくします。
自由にしても、いたずらをするでもなく、
機嫌よくうろうろしています。
犬という生き物は服従することが苦痛ではありません。
むしろ序列がはっきりしていることに安心を覚えるそうです。
ゴードンも、自分の位置をよくわきまえています。
(多分、自分は娘とおばあちゃんの上、ぐらいに思っていそうですが。)
勝手にハウスで寝ていることも多く、
自由でのさばることもありません。
大成功、と思います。
唐突ですが、私は「自分探し」と言う言葉に
違和感を覚えます。
若者が、(と言う時点で私は若くないと白状してしましました)
「自分探し」という言葉を使うとき、
「自分の思っている自分を評価してくれる場所」探しのように思うのです。
他のどこかに、もっと自分を正当に評価してくれるところがある…。
きっと無いと思います。
人間は、自由の中で自分を見つけられないと思います。
自分を見るには、鏡が要ります。
言葉、行動、決まりごと、そんな他とのつながりの中で、
自分の姿が見えてくるのです。
過当評価、不当評価されている自分を、冷静に見ることができなければ、
自分はみつかりません。
どん詰まりの、逃げ場のない状況から、
苦しんで自分の道を探し、作ることで
自分の道ができるのです。
人間は犬ではありませんから、服従することに満足は覚えません。
覚えてはいけません。
今ある状況を無条件に受け入れ、自分をまるめこんではいけません。
でも、「自分探し」というかっこいい言葉を、
今を置き去りにして、
いつまでたっても手の届かない明日を
自分の生き場にする言い訳にしてはいけないのです。
今年は、今までと違った方向から、
戦争を振り返る番組をたくさん見ました。
「自分探し」などという贅沢など
望むすべもなく、
虫けらのように命を落とした人たちを見て、
強く思うことがありました。
また後日、ブログで言葉にしようと思います。