(イメージ画像from 写真AC)
相似形を見つけることが大好きです。
一見関係ないものの中に、同じパターンを見出すことを指します。
最近、ある事に共通点があるのではないかとすごく気になってきました。
それは、自然農法と『学び合い』です。
子どもたちが小さい頃、あと20年もすれば食糧難の時代が来るだろうと聞きました。子育て世代の親として、私が取った対策は、「ホームセンターの世話にならずに食糧を生産する術を身に付ける」です。 食糧難の原因が石油なら、肥料を運ぶ船も来ないでしょうし。
近所で畑を借り、落ち葉や雑草を利用し、生ごみとミミズで作った肥料で野菜を育てました。もちろん農薬も使わないので、「コンパニオンプランツ」という植物の組み合わせで虫が来ないように工夫したりもしました。 だいたい少々虫がついても自分が食べる分には平気なんですけどね。また、土を耕すとクワでミミズを傷つけたり、冬眠中の蛙に当たってしまうので、不耕起にしました。微生物や植物の根っこそのものに耕してもらうというものです。
子どもが小学校帰りに寄ってくれる頃から、巣立つころまで続けたでしょうか、手放すころには指がずぼっと刺さるような、ほこほこの土になっていました。菜園をやめてから、野菜が甘いと思ったことは余り無いように思います。
菜園とは縁も無くなり、最近は西川純先生が提唱しておられる『学び合い』などを少しずつ英語教室に取り入れてみようと、日々教案や教材を練って試行錯誤する毎日ですが、そこには、自分が育てるのではなく生き物が本来もつ力をコーディネイトする、という自然農法の菜園の考え方が重なります。
「教育」は教えて育てると書きますが、翻訳元のeducateは「今あるものを外へ引き出す」を意味します。「教えない」ほど、どんな生徒も生き生きと学びます。植物や小さな生き物たちが持っている力を生かし合う菜園も、豊かで無駄がありせん。educationは本来自然農法と似たものなのだろうと思います。 十人十色、Diversity 。同じ理(ことわり)で説明がつく美しさです。
しかしながら….。
私が最近気になっている相似形がもう一つあります。
家庭菜園の自然農法は、職業としての農業とは違います。生産した利益で生活しておられる農家とは目的も方法もすべて違いますから。 英語を教える事に当てはめれば、私は民間の一教室で、目的も方法も学校教育とは異なっています。対象に純粋にフォーカスして、自由にトライして変わっていける一方で、社会という枠の中では所詮個人のこだわりなのではないかと感じます。
農業も学校教育も、経済や政治なども含めた社会全体パズルの中に存在しており、個人の思いとは別次元で動いていることは容易に推測できます。個人が自分の成功体験を元に安易に批判しても一蹴されるでしょう。 けれども、既成の概念に固執したり、既得権益者を変えるためには凄いエネルギーが必要で、農業も学校教育も時代の流れについて行けてないのも事実だと思うのです。
お百姓になるか英語を教え続けるか、分岐点から十数年。 気が付けば英語においてはNPO法人で仲間を得て「個人」を超えた立場を持つようになりました。 よく見れば相似形から一歩踏み出し始めている自分がいます。 謙虚さや、リスペクトの念を失わずに前をむいて行けば、こんな存在でも役に立つような気がしています。