正解

投稿日: カテゴリー: 想うこと

 

 ハロウィン翌日のゴードン

 
犬どう?ぼく賢こそうやろ。
 この家の子になって2回目の秋。
もう昔のおっさん言葉が似合わないぐらい、落ち着いた日々を送っています。
私Bonnieはというと、ツイッターを初めて約10カ月がたちました。
フェイスブックは数カ月かな。
新聞とるのを止めてしまったり、情報をキャッチする方法が随分かわりました。
で、なんだか人生の方向も変わってきているように思います。
 
 
 
犬何をおおげさな。
人生は食べることにあり、何の変わる必要がありましょうか。


基本は実際に足を運んだり、本を読む。
そこで得たことを実践し、フィードバックする。
これは変わりません。
そこに上がって来る情報の内容や、それに対する考え方が変わってきたのです。 

まず、 今年は「論理的」であることが一つのキーワードでした。
10月にOBK対戦型ワークショップが行われ、大津由紀雄先生の「児童英語はしない方が良い(こともある)」という主張に対し、「児童英語教育は必要だ」という反論を試みました。つまり先生が児童英語をしなくて良いと考えられる根拠をお聞きし、それに対して自分たちのしていることを違う角度から見直すことになったのです。
 たとえば、英語を特別扱いする風潮、つまり英語さえできればなんとかなる、という考えを増長してしまうという危険性が指摘されました。実際、保護者の方にはまるわが子がネイティブのように発音できることで有頂天になる人もいるでしょうし、会話がペラペラなら、将来ユニクロのような海外展開する業界にも通用する、と思う人もいるでしょう。確かにごく早期に外国語にふれるとすばらしい発音が身につきますし、語学の必要性を考えて早く英会話ぐらいはマスターしないと手遅れになるのでは、と不安にかられる方もたくさんいらっしゃいます。 
英語教育産業の立場からは、このような点を強調し、ですから少しでも早く、と説得するのは営業上有効な手段です。では、言語学的見地から見れば違うのでしょうか?
事実というものは常に一つなのですが、言語学的には違う見方ができます。 
よく混同されるのですが、外国語が「第二言語」か「外国語」であるかにより、習得の過程が違うのです。それは触れる頻度の問題なのですが、インドのように公用語が英語であるような国や、日本にいても親など身近な人が常時外国語を話す場合が第二言語にあたります。第二言語に見られる言語習得の過程は、週に一度や二度教室の中でだけ外国語に触れる人には当てはまらないのです。 詳しい詳細はここでは書ききれませんので、はしょって一つの結論を紹介すると、外国語の習得においては、all in English の授業が必ずしも有効でなかったり、中学生以降に始めてもより良好な結果が得られたりするわけです。
「第二外国語」は「外国語」と違う、という事実を認識しないと、客観的な考え方はでません。
英語産業から発信される情報は、わざとその点をあいまいにして親の不安をあおるものが多いことに気付きました。そして私たち児童英語教師自身も、出版社の言葉を鵜呑みにしすぎていた、と言えるのです。
 論理的に考える、ということは主観だけでなく客観的理由や理論でそれをサポートしたり、因果関係をはっきりつかむことだと思いますが、客観的事実をつかむには、人の言うことや書かれたことを正確に解釈できなくてはいけません。 また主張する側は、往々にして自らに有利な方面ばかりを取り上げますから、その反対の意見を探すことが必要です。私は児童英語が有効だし、必要だと考えています。 でも、今回大津先生の意見を知ることで、より深いことを考える機会をいただきました。 
このように両極端から見て真ん中を探す視点は、今までには無かったものです。
見方を変えてみると、子供にとってより良い教室になるため、変えるべき点が出てきました。 そこでまた新しい考え方の登場です。それは、私が今始めている教室改革は「正しい」のかどうかです。
その点については、ツイッターでフォローしている「大前bot」という、大前研一さんの名言を紹介するアカウントでヒントになる言葉がありました。 (文言そのものは引用ではありませんが)実社会において正解というものは無い。いかにbetterであるか、の問題である。 事実は一つでも、見る視点が変わればその事実の持つ意味は色々とあり得るわけです。そういえば、松下幸之助氏も「正解がある問題をだしてどうする?」とおっしゃっていたそうです。 学校では正解を求めるのが目標なのに、何とその先には「正解」のない世界が待っているのです。
 あまり長くなるので、言いたいことをまとめる方向へ向かいましょう。
ツイッターやフェイスブック、ブログ、そこからたどりつける無数の情報サイトからは、アンテナの張り方が偏らないよう気をつければ、論理的判断に必要な両極端の意見を入手することができます。 
英語産業と同じように、テレビや新聞は情報産業ですから、公平中立を装って視聴者や読者に支持してもらえるよう(買ってもらえるよう)な情報とか、民放であればスポンサーの気分を害さないように偏った情報を提供しています。注意が必要です。 
上手く両極端の良質な情報を手に入れたら、だからどうなのか、結論は個人個人が自分の判断でくださなければいけません。絶対的な「正解」にたどり着ければ、もう個人で考える必要はないので楽でしょうが、そんなものは存在しないのだから、あくまで個人が、その結論に達する過程を大切にして、責任を持たなくてはいけません。そこの判断を他人に任せるとあとで「あの時こういったくせに」と恨みごとを言うことになります。
乙武洋匡さんはツイッターで「~するべきだと思いますか?」という質問を受けたときいつも、「大切なのは、自分はどうしたいのかだよ。」と答えてはります。彼の強さの根底には自分に対する強い責任感があり、尊敬せずにおれません。 
具体的に私の教室改革が正しいのか考えてみました。
言葉を学習することは、語彙を増やしたり、文法を教えたり、ましてや翻訳の時術をつたえることではありません。書き手話してが伝えたいことを正確につかむこと、逆に伝える力を持つことが目的のはずです。そういう言語技術をまずは母語で、次に外国語で習得するのが自然な順番です。
正しく読めて書けるなら、「伝えたいこと」の内容そのものを学習対象にできます。内容を吟味するには論理的思考技術も必要になるでしょう。
言葉を教えます、と看板を上げる限りはそこを目標にしたいと思い始めました。情報リテラシーですね。 
こんなことを書くと、また「あの教室は難しいことをしているらしい。」と誤解を招きそうですが、おもしろくないことは出来ない性分なので、そのような壮大な目標はやはり私の心の中にしまっておきましょう。生徒さん達が「なんだかおもしろい事ゆうたはるなぁ」とか「すっきり分かって気持ちいい」とか、いろんな価値観に気付いて元気になれるような仕掛けに落とし込む作業から始めます。
20年以上続けてきた「英語あたま訓練」から英語を習得する道がはっきり見えてきたのは最近のことです。やっと着陸かと思ったのもつかの間、次の課題が見えてしまったからにはタッチアンドゴーで、さらに先の目標を追いかけようと思います。
英語以外のことまで考えることが正しいかどうか。「正解」はありません。けれど、以上のように考えてゆくと、私にはこの方向へ進むことが現状よりもbetterだと思えるのです。
 考え方の方向を検証するのに、Face Bookである先生がすすめてくださった次の本が大変参考になりました。 
原書: Different:Escaping the Competitive herd by Youngme Moon 
邦題: ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業 [単行本] ヤンミ・ムン 
邦題を見て、「えっ?」とびっくり。英語の原題のエッセンスがすっかり消えて、消費者受けして売れやすそうな題になっていて苦笑いです。アップルのSteve Jobs亡き今、このように「違い」を尊重する見方が日本ではちょっとしたブームになっていますね。「自己責任」文化が根ずかないまま「違い」がビジネスチャンスであるように受け取られています。その受け取り方、違和感を感じるんだけど。どうなりますことやら。
 
 
 
犬ぼくも盗み食いについては良く研究してます。
 
だれが一番うっかりしているか、とかね。(論理的考察) 
それに、口に入れたものは、命がけでも話しません。(責任を持った決断)
 
で、昨日はお父さんの鴨のハムとおばあちゃんのパン。 
おとといは、オムレツ一皿をゲットしたんだよね。

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